自己否定は他己否定に通じる、人災・天災の元種

自分つまり精神が心や魂・肉体の存在を否定することを「自己否定」と呼びます。

心や魂が、肉体や精神を否定することは有りません。

それは太陽が地球を否定して、太陽光線を「もうやらないよ」と止めることがないのと同じです。

個人を司る魂は宇宙全体の個別化ですから、それが携えている肉体や精神を否定しません。


ところが「人間の範疇である精神」は肉体・魂・心を否定してしまえる能力を開発してしまった。

精神は自己と他自己は一つであることを忘れて「自分と他人」が、存在することが真実だと勘違いしてしまった。

全ての人類が結局は「一人の自分」であることは究極の真実でしょうが、精神ではそれは耐えられない戯言に思えるのでしょう。

自分と他人があるから、自己否定してもかまわないと精神は考えました。

ところが究極では自己も他己も同じですから、周囲の人達を否定しているのと同じです。

自分の肉体や心が辛いこと、望まないことをやる人と、他の肉体や心が望まないことをやる人は同じ事をやっているのです。

最大の自己否定は「自分の人生を生きないこと」ですが、他の人達にも「それぞれの人生を生きさせない」ようにします。

人生の目的は人それぞれ違います。

ですから沢山の肉体と精神を持って誕生してきます。

目的が一つならば一人の人だけで完了できるからです。

人生の目的が似ている人は居るでしょうが、全く同じ人は居ないでしょう。

似ている人と出会うと何故かしら「ほっと」するだろうし、その目的を達成するために必要なことを教えてくれたり(人生の師)、学ばせてくれる人(運命的な出会い)に会うのは、人生最大の喜びでしょう。

そんな人に出会うには常に「自分の人生目的」を明確に、心と精神に表明していなければなりません。

人生の目的。

それを抱いて私たち人類は誕生してきました。

気の流れは一方通行の円運動

気の流れは下腹部の中心から両腕へ、下腹部の中心から下半身へと一方通行ですが円運動になっています。

地球全体がエネルギーを循環させているように、気というエネルギーも円運動になっています。

気だけでなくて、社会全体が円運動で循環しています。

その円の一部が詰まったり、逆流すると不健全な社会となってしまいます。

例えばお金ですが、収入を得るところと支出するところは別々なのが普通です。
ギャンブルなどは、賭けたのが当たったり勝ったりして収入があり、同じ所に賭けて負けるとまた返してしまうので大きな円運動に入っていません。

空気の綺麗な場所で深呼吸をするのと、スモッグ一杯のところで呼吸するのと違うように気というエネルギーも「良い気」の場所で取り入れるのが善いでしょう。

私が教えを受けた気功の先生が与えてくださった気。 それを受けて、自分の中で熟成させて今ここで放出する与える、教える機会に恵まれています。

大きな円運動・循環の輪であればあるほど、実感がくるまで時間も場所もかかります。

若いときに読んだ本が難しくて理解できなかったことも、時が経つにつれ理解してそれを伝えていくことが出来るように、気のエネルギーも私にとって理解するのに時間が必要でした。

また教えを受けた先生とは、あえて離れて亜流にならずに独自の方法や理論を見いだして、新しい円・流れを作っていくことも大切だと考えています。

それらも人類全体の発展という視点から見たら、一つの大きな円運動でしょうから円を断ち切ったのではないと思っています。

自分が尊敬する偉大な先生であるならば、庇護の元から離れて独自の道を歩むことを決して止めはしないし、非難もされないでしょう。

人が幸せになっていくには「幾千もの手段や方法がある。私の道はその一つに過ぎない」という真理・真実に照らし合わせれば、いいだけです。

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与える方向は一方通行で

親子の場合、まず親から子へ色々なお世話を通して与えています。

そして子が成長して親の力が衰えてきた時期には、逆に子から親へ与えていくようになるでしょう。

ところが自然界の動きを観察すると「親から子への一方通行のみ」だと気づくのです。

たとえば「太陽光線」は太陽からの一方通行で、誰も「太陽に熱を返さないと」と心配したり考えたりしません。
植物もそうです。花が咲いて実がなって種となる、その方向でしかあり得ません。

では動物はどうでしょうか?

子からのお返しを心待ちにしている動物たちがあるでしょうか? いないと思います。

ところが人は子が成長して、いずれは親自身の面倒を見てくれるものとして頼りにしているケースがあります。

親からの見返りを期待された子は、どうなるでしょうか。

本来、自分の親だけでなく広く社会全体に還元していく能力・仕事が、自分の親に向かって多大に放出されてしまいます。

こんなことは社会全体のエネルギーの逆行で、社会全体の成長・発展を遅らせることになりかねません。

親の立場になった人は「全く見返りを求めずに我が子の世話をする」ことに徹していくことが、将来の自分の生活が安定することを、意識するのが大切だと思います。

また「気功」の見方でも「気の流れは一方的」なのです。

気は個人の体や精神を通して大きく循環していますが、一人の動きは一方通行になっています。

下腹部の中心に一人の気の中心が有り、そこから手足に向かって気が流れていきます。

外へ放出した気が、それ以上の勢いを持って外部から「天の気・地の気」となって人に入ってきます。

入ってきた気と元々人の中にあった気を融合して、より大きく、精密な気と練っていく。それが鍛錬であり練功とよばれる動作・中味となっていきます。

この気のことは「学習による知識の習得」とよく似ています。
書物や先生から習った新しい知識や知恵を、自分のそれまでの知識や知恵と融合させて新しい知識や知恵として使い、次代に引き継いでいく。

与えるのは余裕があるからだと、これまでは思っていましたが「与えるのが自然本来の状態である」ことが今確信できました。

なにかするときに緊張してしまう人へ

たとえば楽器演奏で舞台に上がるとき。
たとえば初対面の人と話すとき。
など「緊張してしまうとき」があると思います。

緊張って、何故するんでしょうか?

もちろん緊張して集中力がわき上がって良い面もあるのですが、逆に力んでしまって心臓がドキドキしてしまうともっちている力を出し切れなかったりしますね。

「失敗したらどうしよう・・」「うまく話が出来なかったら・・・」と心配しやすい人が緊張もすることでしょう。


そして、自分の体が自分のじゃないようにまで思えてきて、何をしたのか何をしゃべったのかすら覚えていないという事態にまでなってしまう。

そうならないで、自分の力を全部使ってしまえるにはどうしたらいいのか?ということです。

これは気功の基本姿勢として練習するのですが「筋肉を両方ともゆるりと力を入れる」ことがポイントです。
筋肉はペアーでついていて、片方が伸びたら反対側が縮まるようになっています。

それを両方とも、ゆるりと力をいれるとどうでしょうか?

腕を伸ばして意識して両方の筋肉に力を入れてみてください。

肘が曲がって手首や指先もわずかに曲がっていますね。

これがニュートラルです、力が抜けすぎずに力んでいない状態です。

でも意識は常に腕にあります。ぼやーとしているといつの間にか、どちらかの筋肉だけに力が入っています。


この状態からだと、肘を伸ばすことも逆に肘を曲げることも直ぐに簡単に出来ます。

身体ではこのように練習していきますが、精神面で緊張しないようになるにはどうするか?


それは「失敗も成功も無い」ことを知って居ること。
楽器の演奏なら演奏することだけ思うこと。
「失敗しないように」と念じるのは「失敗することを前提にしているから逆効果である」ことを知ること。

3番目に書いたのは他にも通用するのですが、「失敗しないように」と願うのは「失敗すると思っている→失敗の道を選びかけている→失敗する」こんな連鎖反応をよびます。

失敗したくないと念じるのが最も確実な失敗方法なんてーー

失敗も成功もいつの時点で判断するかで、全く違ったことになります。

ですから「失敗も成功も無い」としているほうが、結局は正しいのです。


安心・安全は金で買えない

安全も安心も金では買えません。

それは何故かというと・・・

本当の安全や安心は、自分の内なる心を通して魂の安らぎに触れることだからです。

というとなにやら宗教がかっていますが、別に教典や教祖があるわけでなしもちろん私を信じてくださいというのでもありません。

一人ひとりの内にある心。それを通して魂の安らぎに至ることは何も頼ることなく可能だからです。

他に依存したり頼ることをはっきりと決別した心境であってこそ、魂の安らぎにいたることが可能になります。

仮に言えば「自神教」でしょうか?
他を信じる他神教でなくて自分を信じる 「自神教」ですね。

簡単に自分と表現しても「自分の意味」も色々あって、どれを信じたらいいのか?迷ってしまうかたもあるでしょう。

身体を表す自分自身、心を表す自分、魂そのものである自分、社会の一員である自分と、感情を表す自分などいくつもあります。

自動車を運転するときに一般的にはエンジンの仕組みを意識しながら運転しませんね。
エンジンがかかれば、あとはアクセル・ブレーキ・ハンドルさばきで行きたいところにいくだけです。

エンジンが不調になったり、タイヤがパンクしたりしてやっと車の仕組みを思い返すくらいです。

私たちも日常的には魂のことは、ほとんど忘れているのでしょう。
病気や怪我、事故にあって初めて、改めて身体を労り命のありがたさや魂の存在に想いをはせます。

それが日常、いつも魂からのメッセージを受け取れたら、どれほど安心で安全を授受できることでしょうか。

それは各自の心の働きにかかっています。 つまり金でかえるものはないのです。

心の栄養は魂から受け取るエネルギーです。 そのエネルギーは無限ですしタダです。

身体の栄養は食物や空気ですが暮らしていくには現状ではお金が必要です。

どれほどの資産が有って、どれほどセキュリティーに費用をかけても心が安らかで無ければ「本当の安心も安全も得られない」ことでしょう。

魂から得られる心の安らぎは、万人にもれなく備わっている絶対境地の支えです。

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