魂の約束

今整骨院に仕事に行っていますが、そこでかかわりを持つ患者さんには感謝しきりです。
「わざわざ私に伝えてくれるために、わが身を痛めてでも来てくれるなんて」

そう思っています。
もちろん患者さんご本人はそんな気持ちはさらさら無くて「体調悪いから来院してるだけで、あんたのためじゃないよ」とおっしゃることでしょうが。

魂のレベルでは、今生ではどのような役割で出会おうか話しがされていることでしょうが、人の精神面ではそう思えないことが多分にあるようです。

屋久島に移住するときに「いずれは都会で多くの人の中で働くために、まずは自分の疲れを癒して、働ける力をつける」ことを念頭においていました。

北九州に転居して人の中で働くことが出来て、嬉しいのと感謝で一杯です。

「天使しか送らなかった」と、天地創造した存在は人類にメッセージを送っていることでしょうが、それを実感できるのです。

天使と言っても優しいメッセージを与えてくれるばかりでなくて、そのときにはショックな出来事や辛いと感じるメッセージを与えてくれる場合もあります。
患者さんへの整体が思ったほどうまくいかなかったり、日々の出来事は一見楽しいことばかりではありません。

でもそんなときも「笑う気功」で最初にお伝えする「まず笑ってことに対処する」心持で、どんなことも批判非難せずに受け入れることが出来たら。
その瞬間は意味が分からなくとも、振り返ってみたら「あの人はあの時、こんなメッセージを届けてくれたんだ」と思いつくことが出来ます。

そう思えたときには、その人を思い出すときに「笑顔」で私の胸に蘇ってきます。
「あの人も天使だったんだな」と思い返すひと時になります。

そう思うときこそ「魂の安らぎであり、心の栄養素」なんでしょうね。

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17人が死傷した東京・秋葉原の無差別殺傷事件は7日、発生から1か月になる。

 この事件で亡くなった方、そのご遺族に対して心より追悼の意を表します。

 容疑者の生活環境が辛かったにせよ、どこかの時点で「負の連鎖」「怒りの連鎖」を断ち切らないと変わりません。



 ご遺族には「身内を亡くした悲しみ」を充分に受け止めて、それを昇華なさる時間や環境を持たれることが第一だと思うのです。

 容疑者に対して「怒りや憤りを持ち続ける」ことは、負の連鎖をつないでいくようなもので、ご自身にとって一番辛い状況を作り出してしまうでしょう。



 容疑者は自分に降りかかった負の連鎖を断ち切れずに、多くの人達に引き渡してしまいました。

 そうして自分が引き起こしたことを、時間を掛けて充分にかみしめてほしいです。

 どれほどの事件を起こしたにせよ、その人への怒りや憤りを持ち続けるのは良策とは思えません。

 人を殺傷するという破壊行動を起こした人を「公の力・裁判」で再破壊するのは誰の幸せでも無いし、理性でもありません。

 各メディアには「容疑者への怒り」をあおるような報道は、控えて欲しいと切実に願います。

与えれば与えるほどに豊かになっていく心

与えれば与えるほどに、心の豊かさに気づくことができます。

物質的には「与えたらその分少なくなる」のですが、無形の心は逆に「与えるほどに豊かさを実感」できます。

赤ちゃんは何一つ所有する物がなくとも、その笑顔だけで見る人に暖かさを送っています。

物質面の豊かさを否定するのではありませんが、心の豊かさを認めて与える喜びを共有出来る間柄が魂の喜びになっていくのでしょう。

与えあえる間柄とは?

買い物したとき一般的には金銭と品物の交換ですが、与え合う関係と見たらどうでしょうか?

品物の代償としての金銭、金銭に見合った品物と見てしまうと単なる交換なんですが「品物を与える人と金銭を与える人」同士と見たらどうでしょうか?

私が仕事で整体や気功を教えるのも「自分の感性や技術を与える」ところに立って行います。

すると受け取った方(つまりお客さん)は「金銭や謝礼を与える」機会を得て、私に与えてくれます。

「お互いが自分にしか出来ないことや物を与え合う関係」ならば、とてもスムーズな対人関係になるでしょう。

でも「お互いが同じ物を与え合う関係」ならば、ちょっとぎくしゃくした関係でしょう。

私から整体を受けた人が又私に整体をしてくれるようなもので、二人だけで循環しているのは不自然ですから。

すると「それぞれが、その人にしか出来ないことや、物を準備しておく」必要があります。

金銭も便利な物ですが単なる交換手段とすると自ら、与える喜びをそいでしまうのです。

という私自身も買い物の都度「金銭を与える」と意識していませんが、これからは意識を変えてみようかなと思っています。

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心が満たされるならば しんでも良いと思っています

魂の最大目的が何かというのは、分かりません。

人には魂の全貌などわかるはずがないと、観念しています。

私がかろうじて理解出来る範囲はたかがしれており、その範囲内で言えば私の人生での望みは「心の平安のみ求める」ことであると、自覚しています。

それが叶えられたら、しんでも良いと思っています。

でも「心の平安」というのは簡単ですが、その内容は限りない程深いものを欲求しているんだろうなーと、想像しています。

それがより負荷の少ない農作物を食べることや、オーガニック製品を着用すること、重曹や銀イオンでの洗浄で石けんの使用量を減らすこと、肉食や魚食をしないことなどをやってきた理由だと思います。

確かに以上の事柄をやると、その分平安になります。

また気功講座や整体、セラピーをするのもより多くの人達が健康で健全な社会生活を送るためのお手伝いです。

ここ最近、簡単に人をさつがいする人が増えています。

また地震などによる被害も多いです。

私をさつがいすることで、その人の人生目的が達成するならば、私自身で、しを選択することも拒みません。

魂レベルでは、どんなことになろうと全て「自己選択している」ことが、このごろ再確認できたからです。

ある人と魂のレベルで「さつがいする関係を約束」しているならば、私がしを選択するのは了承済みと言うわけです。

人から見れば不慮の事故やとんでもないことのようであっても、大きなレベルからすれば「全て納得済み」なんだろうと思います。

これは決して自し願望ではありません。

他さつ願望でもありません。

そうなることが心の平安、魂の望みならば「この命、全て放しても惜しくない」という、気持ちです。



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あえて漢字を使わないで「し」「さつがい」 と表記しています。

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しを見詰めることは、生きることを見詰めることと同じです

親しい人のしを知ることは、悲しみや辛さを引き起こします。

それは人の感情として当たり前でしょうし、それまで無理に押しとどめることはないです。

でも、その悲しみの涙は誰のために流す涙でしょうか?

亡くなった人を思ってでしょうか。

それとも残された自分の辛さを想像して泣くのでしょうか?

誰のしであっても、悲しみを引き起こし辛さも感じさせられます。

そういった感情を引き起こすためにしを選択することもあるでしょう。

たとえば生後間もない子どものし。

酔っぱらい運転による事故で亡くなった子どもの存在を広く知らされるのは、私たちに「飲酒運転」のばかばかしさを思い出させてくれるため。

そのために子どもたちの魂はあえて、そんな事故でのしを選択されたのでしょう。

そう思うと胸が張り裂けそうな悲しみが襲ってきます。

私たち人類にとって「生とし」の問題は常に大きいことでした。

しへの恐怖・恐れは生への恐れ・恐怖と同じものです。

しへの恐怖・恐れが無くなれば、私たち人類はもっと生を楽しく有意義にやっていけるでしょう。

それを自覚できるために、私たちは「し」を何度も、何度も知らされます。

じつは私は両親が好きではありませんでした。

両親を亡くしてから、数年たってやっと好きになれました。 今はいつでも両親の笑顔を我が胸に思い出せます。

両親とも私には沢山の贈りものを与えてくれていたのに好きになれなかった私へ、両親からの最後の贈りものが自らのしだったと、今では思えます。

生きている間に子どもや周囲の人達、社会全体へ有形無形の贈りものを私たちは与えています。

人生の最後に与える贈りものが「し」であると、私は思っているのです。