ほっと一息
ほっと一息 こころとからだの休憩所
17人が死傷した東京・秋葉原の無差別殺傷事件は7日、発生から1か月になる。
この事件で亡くなった方、そのご遺族に対して心より追悼の意を表します。
容疑者の生活環境が辛かったにせよ、どこかの時点で「負の連鎖」「怒りの連鎖」を断ち切らないと変わりません。
ご遺族には「身内を亡くした悲しみ」を充分に受け止めて、それを昇華なさる時間や環境を持たれることが第一だと思うのです。
容疑者に対して「怒りや憤りを持ち続ける」ことは、負の連鎖をつないでいくようなもので、ご自身にとって一番辛い状況を作り出してしまうでしょう。
容疑者は自分に降りかかった負の連鎖を断ち切れずに、多くの人達に引き渡してしまいました。
そうして自分が引き起こしたことを、時間を掛けて充分にかみしめてほしいです。
どれほどの事件を起こしたにせよ、その人への怒りや憤りを持ち続けるのは良策とは思えません。
人を殺傷するという破壊行動を起こした人を「公の力・裁判」で再破壊するのは誰の幸せでも無いし、理性でもありません。
各メディアには「容疑者への怒り」をあおるような報道は、控えて欲しいと切実に願います。
容疑者の生活環境が辛かったにせよ、どこかの時点で「負の連鎖」「怒りの連鎖」を断ち切らないと変わりません。
ご遺族には「身内を亡くした悲しみ」を充分に受け止めて、それを昇華なさる時間や環境を持たれることが第一だと思うのです。
容疑者に対して「怒りや憤りを持ち続ける」ことは、負の連鎖をつないでいくようなもので、ご自身にとって一番辛い状況を作り出してしまうでしょう。
容疑者は自分に降りかかった負の連鎖を断ち切れずに、多くの人達に引き渡してしまいました。
そうして自分が引き起こしたことを、時間を掛けて充分にかみしめてほしいです。
どれほどの事件を起こしたにせよ、その人への怒りや憤りを持ち続けるのは良策とは思えません。
人を殺傷するという破壊行動を起こした人を「公の力・裁判」で再破壊するのは誰の幸せでも無いし、理性でもありません。
各メディアには「容疑者への怒り」をあおるような報道は、控えて欲しいと切実に願います。
与えれば与えるほどに豊かになっていく心
与えれば与えるほどに、心の豊かさに気づくことができます。
物質的には「与えたらその分少なくなる」のですが、無形の心は逆に「与えるほどに豊かさを実感」できます。
赤ちゃんは何一つ所有する物がなくとも、その笑顔だけで見る人に暖かさを送っています。
物質面の豊かさを否定するのではありませんが、心の豊かさを認めて与える喜びを共有出来る間柄が魂の喜びになっていくのでしょう。
与えあえる間柄とは?
買い物したとき一般的には金銭と品物の交換ですが、与え合う関係と見たらどうでしょうか?
品物の代償としての金銭、金銭に見合った品物と見てしまうと単なる交換なんですが「品物を与える人と金銭を与える人」同士と見たらどうでしょうか?
私が仕事で整体や気功を教えるのも「自分の感性や技術を与える」ところに立って行います。
すると受け取った方(つまりお客さん)は「金銭や謝礼を与える」機会を得て、私に与えてくれます。
「お互いが自分にしか出来ないことや物を与え合う関係」ならば、とてもスムーズな対人関係になるでしょう。
でも「お互いが同じ物を与え合う関係」ならば、ちょっとぎくしゃくした関係でしょう。
私から整体を受けた人が又私に整体をしてくれるようなもので、二人だけで循環しているのは不自然ですから。
すると「それぞれが、その人にしか出来ないことや、物を準備しておく」必要があります。
金銭も便利な物ですが単なる交換手段とすると自ら、与える喜びをそいでしまうのです。
という私自身も買い物の都度「金銭を与える」と意識していませんが、これからは意識を変えてみようかなと思っています。
物質的には「与えたらその分少なくなる」のですが、無形の心は逆に「与えるほどに豊かさを実感」できます。
赤ちゃんは何一つ所有する物がなくとも、その笑顔だけで見る人に暖かさを送っています。
物質面の豊かさを否定するのではありませんが、心の豊かさを認めて与える喜びを共有出来る間柄が魂の喜びになっていくのでしょう。
与えあえる間柄とは?
買い物したとき一般的には金銭と品物の交換ですが、与え合う関係と見たらどうでしょうか?
品物の代償としての金銭、金銭に見合った品物と見てしまうと単なる交換なんですが「品物を与える人と金銭を与える人」同士と見たらどうでしょうか?
私が仕事で整体や気功を教えるのも「自分の感性や技術を与える」ところに立って行います。
すると受け取った方(つまりお客さん)は「金銭や謝礼を与える」機会を得て、私に与えてくれます。
「お互いが自分にしか出来ないことや物を与え合う関係」ならば、とてもスムーズな対人関係になるでしょう。
でも「お互いが同じ物を与え合う関係」ならば、ちょっとぎくしゃくした関係でしょう。
私から整体を受けた人が又私に整体をしてくれるようなもので、二人だけで循環しているのは不自然ですから。
すると「それぞれが、その人にしか出来ないことや、物を準備しておく」必要があります。
金銭も便利な物ですが単なる交換手段とすると自ら、与える喜びをそいでしまうのです。
という私自身も買い物の都度「金銭を与える」と意識していませんが、これからは意識を変えてみようかなと思っています。
心が満たされるならば しんでも良いと思っています
魂の最大目的が何かというのは、分かりません。
人には魂の全貌などわかるはずがないと、観念しています。
私がかろうじて理解出来る範囲はたかがしれており、その範囲内で言えば私の人生での望みは「心の平安のみ求める」ことであると、自覚しています。
それが叶えられたら、しんでも良いと思っています。
でも「心の平安」というのは簡単ですが、その内容は限りない程深いものを欲求しているんだろうなーと、想像しています。
それがより負荷の少ない農作物を食べることや、オーガニック製品を着用すること、重曹や銀イオンでの洗浄で石けんの使用量を減らすこと、肉食や魚食をしないことなどをやってきた理由だと思います。
確かに以上の事柄をやると、その分平安になります。
また気功講座や整体、セラピーをするのもより多くの人達が健康で健全な社会生活を送るためのお手伝いです。
ここ最近、簡単に人をさつがいする人が増えています。
また地震などによる被害も多いです。
私をさつがいすることで、その人の人生目的が達成するならば、私自身で、しを選択することも拒みません。
魂レベルでは、どんなことになろうと全て「自己選択している」ことが、このごろ再確認できたからです。
ある人と魂のレベルで「さつがいする関係を約束」しているならば、私がしを選択するのは了承済みと言うわけです。
人から見れば不慮の事故やとんでもないことのようであっても、大きなレベルからすれば「全て納得済み」なんだろうと思います。
これは決して自し願望ではありません。
他さつ願望でもありません。
そうなることが心の平安、魂の望みならば「この命、全て放しても惜しくない」という、気持ちです。
ーーーーーーーーーーーーーー
あえて漢字を使わないで「し」「さつがい」 と表記しています。
人には魂の全貌などわかるはずがないと、観念しています。
私がかろうじて理解出来る範囲はたかがしれており、その範囲内で言えば私の人生での望みは「心の平安のみ求める」ことであると、自覚しています。
それが叶えられたら、しんでも良いと思っています。
でも「心の平安」というのは簡単ですが、その内容は限りない程深いものを欲求しているんだろうなーと、想像しています。
それがより負荷の少ない農作物を食べることや、オーガニック製品を着用すること、重曹や銀イオンでの洗浄で石けんの使用量を減らすこと、肉食や魚食をしないことなどをやってきた理由だと思います。
確かに以上の事柄をやると、その分平安になります。
また気功講座や整体、セラピーをするのもより多くの人達が健康で健全な社会生活を送るためのお手伝いです。
ここ最近、簡単に人をさつがいする人が増えています。
また地震などによる被害も多いです。
私をさつがいすることで、その人の人生目的が達成するならば、私自身で、しを選択することも拒みません。
魂レベルでは、どんなことになろうと全て「自己選択している」ことが、このごろ再確認できたからです。
ある人と魂のレベルで「さつがいする関係を約束」しているならば、私がしを選択するのは了承済みと言うわけです。
人から見れば不慮の事故やとんでもないことのようであっても、大きなレベルからすれば「全て納得済み」なんだろうと思います。
これは決して自し願望ではありません。
他さつ願望でもありません。
そうなることが心の平安、魂の望みならば「この命、全て放しても惜しくない」という、気持ちです。
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あえて漢字を使わないで「し」「さつがい」 と表記しています。
しを見詰めることは、生きることを見詰めることと同じです
親しい人のしを知ることは、悲しみや辛さを引き起こします。
それは人の感情として当たり前でしょうし、それまで無理に押しとどめることはないです。
でも、その悲しみの涙は誰のために流す涙でしょうか?
亡くなった人を思ってでしょうか。
それとも残された自分の辛さを想像して泣くのでしょうか?
誰のしであっても、悲しみを引き起こし辛さも感じさせられます。
そういった感情を引き起こすためにしを選択することもあるでしょう。
たとえば生後間もない子どものし。
酔っぱらい運転による事故で亡くなった子どもの存在を広く知らされるのは、私たちに「飲酒運転」のばかばかしさを思い出させてくれるため。
そのために子どもたちの魂はあえて、そんな事故でのしを選択されたのでしょう。
そう思うと胸が張り裂けそうな悲しみが襲ってきます。
私たち人類にとって「生とし」の問題は常に大きいことでした。
しへの恐怖・恐れは生への恐れ・恐怖と同じものです。
しへの恐怖・恐れが無くなれば、私たち人類はもっと生を楽しく有意義にやっていけるでしょう。
それを自覚できるために、私たちは「し」を何度も、何度も知らされます。
じつは私は両親が好きではありませんでした。
両親を亡くしてから、数年たってやっと好きになれました。 今はいつでも両親の笑顔を我が胸に思い出せます。
両親とも私には沢山の贈りものを与えてくれていたのに好きになれなかった私へ、両親からの最後の贈りものが自らのしだったと、今では思えます。
生きている間に子どもや周囲の人達、社会全体へ有形無形の贈りものを私たちは与えています。
人生の最後に与える贈りものが「し」であると、私は思っているのです。
それは人の感情として当たり前でしょうし、それまで無理に押しとどめることはないです。
でも、その悲しみの涙は誰のために流す涙でしょうか?
亡くなった人を思ってでしょうか。
それとも残された自分の辛さを想像して泣くのでしょうか?
誰のしであっても、悲しみを引き起こし辛さも感じさせられます。
そういった感情を引き起こすためにしを選択することもあるでしょう。
たとえば生後間もない子どものし。
酔っぱらい運転による事故で亡くなった子どもの存在を広く知らされるのは、私たちに「飲酒運転」のばかばかしさを思い出させてくれるため。
そのために子どもたちの魂はあえて、そんな事故でのしを選択されたのでしょう。
そう思うと胸が張り裂けそうな悲しみが襲ってきます。
私たち人類にとって「生とし」の問題は常に大きいことでした。
しへの恐怖・恐れは生への恐れ・恐怖と同じものです。
しへの恐怖・恐れが無くなれば、私たち人類はもっと生を楽しく有意義にやっていけるでしょう。
それを自覚できるために、私たちは「し」を何度も、何度も知らされます。
じつは私は両親が好きではありませんでした。
両親を亡くしてから、数年たってやっと好きになれました。 今はいつでも両親の笑顔を我が胸に思い出せます。
両親とも私には沢山の贈りものを与えてくれていたのに好きになれなかった私へ、両親からの最後の贈りものが自らのしだったと、今では思えます。
生きている間に子どもや周囲の人達、社会全体へ有形無形の贈りものを私たちは与えています。
人生の最後に与える贈りものが「し」であると、私は思っているのです。
自己否定は他己否定に通じる、人災・天災の元種
自分つまり精神が心や魂・肉体の存在を否定することを「自己否定」と呼びます。
心や魂が、肉体や精神を否定することは有りません。
それは太陽が地球を否定して、太陽光線を「もうやらないよ」と止めることがないのと同じです。
個人を司る魂は宇宙全体の個別化ですから、それが携えている肉体や精神を否定しません。
ところが「人間の範疇である精神」は肉体・魂・心を否定してしまえる能力を開発してしまった。
精神は自己と他自己は一つであることを忘れて「自分と他人」が、存在することが真実だと勘違いしてしまった。
全ての人類が結局は「一人の自分」であることは究極の真実でしょうが、精神ではそれは耐えられない戯言に思えるのでしょう。
自分と他人があるから、自己否定してもかまわないと精神は考えました。
ところが究極では自己も他己も同じですから、周囲の人達を否定しているのと同じです。
自分の肉体や心が辛いこと、望まないことをやる人と、他の肉体や心が望まないことをやる人は同じ事をやっているのです。
最大の自己否定は「自分の人生を生きないこと」ですが、他の人達にも「それぞれの人生を生きさせない」ようにします。
人生の目的は人それぞれ違います。
ですから沢山の肉体と精神を持って誕生してきます。
目的が一つならば一人の人だけで完了できるからです。
人生の目的が似ている人は居るでしょうが、全く同じ人は居ないでしょう。
似ている人と出会うと何故かしら「ほっと」するだろうし、その目的を達成するために必要なことを教えてくれたり(人生の師)、学ばせてくれる人(運命的な出会い)に会うのは、人生最大の喜びでしょう。
そんな人に出会うには常に「自分の人生目的」を明確に、心と精神に表明していなければなりません。
人生の目的。
それを抱いて私たち人類は誕生してきました。
心や魂が、肉体や精神を否定することは有りません。
それは太陽が地球を否定して、太陽光線を「もうやらないよ」と止めることがないのと同じです。
個人を司る魂は宇宙全体の個別化ですから、それが携えている肉体や精神を否定しません。
ところが「人間の範疇である精神」は肉体・魂・心を否定してしまえる能力を開発してしまった。
精神は自己と他自己は一つであることを忘れて「自分と他人」が、存在することが真実だと勘違いしてしまった。
全ての人類が結局は「一人の自分」であることは究極の真実でしょうが、精神ではそれは耐えられない戯言に思えるのでしょう。
自分と他人があるから、自己否定してもかまわないと精神は考えました。
ところが究極では自己も他己も同じですから、周囲の人達を否定しているのと同じです。
自分の肉体や心が辛いこと、望まないことをやる人と、他の肉体や心が望まないことをやる人は同じ事をやっているのです。
最大の自己否定は「自分の人生を生きないこと」ですが、他の人達にも「それぞれの人生を生きさせない」ようにします。
人生の目的は人それぞれ違います。
ですから沢山の肉体と精神を持って誕生してきます。
目的が一つならば一人の人だけで完了できるからです。
人生の目的が似ている人は居るでしょうが、全く同じ人は居ないでしょう。
似ている人と出会うと何故かしら「ほっと」するだろうし、その目的を達成するために必要なことを教えてくれたり(人生の師)、学ばせてくれる人(運命的な出会い)に会うのは、人生最大の喜びでしょう。
そんな人に出会うには常に「自分の人生目的」を明確に、心と精神に表明していなければなりません。
人生の目的。
それを抱いて私たち人類は誕生してきました。






